田中正造は、1890年(明治23)の第1回総選挙で衆議院議員に当選し、そのころ農作物や魚に大きな被害を与えていた足尾銅山の鉱毒問題を繰り返し国会でとりあげ、渡良瀬川沿いの人々を救うため努力した。質問書を提出し,即時操業停止と農民救済を迫ったが意見は通らなかった。1896年(明29)に政府は古河鉱業に鉱毒予防を命じた。それでも鉱毒はやまなかった。1901年(明34)に議員を辞職すると,12月に幸徳秋水らの助力を得て天皇に直訴。直訴状は、まず幸徳が書き、田中が手を加えたものである。失敗に終わるが,事件は日本中に知られるようになる。問題が広がるのをおそれた政府は1907年(明40)に谷中村に土地収用法を適用して強制的に廃村とし,跡地を遊水池にして鉱毒問題を終わらせようとした。
この年,荒畑寒村は「谷中村滅亡史」を著わし,即日発禁処分を受けている。遊水池をふくむ渡良瀬川流域では第2次世界大戦後まで,しばしば大洪水と大干魃に襲われ鉱毒問題が再燃した。
啄木は田中正造の直訴事件をきっかけに関心を深めた。1901年(明治34)12月、田中正造の直訴の報を伝え聞くと盛岡中学生の啄木は、その思いを31文字に綴った。
夕川に葦は枯れたり血にまどふ
民の叫びのなど悲しきや
1902年(明35)1月23日,青森歩兵第5連隊第2大隊の八甲田山雪中行軍遭難事件が起きると,29日に啄木らユニオン会有志は「岩手日報」の号外を1枚1銭で売って義捐金を募り,20円を足尾鉱毒地の被災者に送った。
読売新聞(1月9日)