担当裁判長が誰になろうと、一喜一憂する必要はない。しかし、その誰かによって、再審の行方が左右されることもまた現実だ。その意味では、誰が担当になるかに関心を寄せずにはおれない。門野博さんが裁判長になったときは、私的には「これは、まずいなあ」と思ったものだ。だから、彼が三者協議を経て、証拠開示勧告をするとは予想しなかった。
そこに至る背景には、もちろん、闘いの蓄積があったことは論を待たない。しかし、それに加えて、門野博という裁判官の個性が寄与したことも間違いがないと思う。歴史の様々な場面において、個性や個人的資質が大きな役割を果たすことはまれではない。大事なことは、それらが発揮される時と場所と状況とを作り出すこと、それらを促進するような動きを作り出すことではないか。
次の裁判長が誰になるにせよ、こうしたことを念頭に置きつつ、「次」の局面を拓くためのアプローチを続けねばと改めて思う次第。