強風と寒さが重なるという気候は、ナポリと香港と並んで世界三大夜景と言われる函館夜景を見るには絶好のタイミング。函館山から眼下の函館市内から遠く津軽半島までが一望できた。
さて、あくる日(3日)は、啄木の墓がある立待岬をめざして函館駅から市電に乗った。乗り込んだ電車は、降車駅の「谷地頭」(やちがしら}ではないことがわかり、あわてて「十字街」で乗り替える。「谷地頭」で降り、案内板に従って歩く。進むにしたがって人気はなくなり、静かだ。やがて、左に海が見え、両側に墓地が広がる。啄木の墓はそのはずれに建っていた。
「石川啄木一族の墓」と書かれた白い標柱が目に飛び込んだ。書籍やネットで何度も見たままだ。ああ、ここだ。ここに啄木が・・・。表には、「一握の砂」の冒頭にある「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の歌が刻まれていた。
そして、裏を見ると、宮崎郁雨にあてた私信の一部が。
啄木書簡の一節
「これは嘘いつはり
もなく正直にいうのだ
『大丈夫だよしゝ
おれは死ぬ時は函館へ行
って死ぬ』その時斯
う思ったよ、何処で死
ぬかは元より解った事で
はないが、僕は矢張死ぬ
時は函館で死にたいよう
に思う。
君、僕はどうしても僕の
思想が時代より一歩進んで
いるという自惚をこのごろ
捨てる事が出来ない
明治三十四年十二月二十一日
東京本郷弓町二の十八 石川啄木
「函館で」との思いは、1926年に郁雨たちによってかなえられ、啄木と妻・節子、3人の愛児、両親が眠っている。
その先、立待岬には与謝野晶子・鉄幹の歌碑がある。
浜菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土 寛
啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと 晶子
啄木は、26年53日の短い人生を疾風のごとくに生きた。その死はあまりに早すぎたが、限られた時間で為したことは、とてつもなく大きい。そして、それは時代を超えて、私(たち)の心を撃つ力を持つ。人が死して残すものがあるとすれば、啄木にはかなうまいと思う。