読売新聞(2月17日夕刊)に「茶の湯」と題して、利休について以下のように書かれている。
千家四代江岑(こうしん)宗左によれば、利休の父は田中与兵衛、祖父は足利義政・義尚の同朋衆、千阿弥という。義尚が近江の陣中で病没、田中千阿弥は堺へ逃れ、息子、与兵衛の代に父の千の字をとって名字にした。
しかし、他の史料と突き合わせると、「この伝承には疑間がある」と村井康彦・京都市美術館長はいう。結局、千の由来ははっきりしない。利休の幼名は与四郎。仏門の師から授かった法名が宗易であり、人生の大半をこの名前で過ごした。60歳を超え、御所での茶会に出席する際、天皇から下賜された居士号が利休だ。
こうして千利休になった偉大な茶人について、多くの事績が伝わる。ただ小説や漫画、映画でおなじみのエピソードの大半は、没後100年以上たって刊行された逸話集「茶話指月集」がネタもと。千家の弟子の弟子が言い伝えを筆録したというから、面白いのだが、事実かどうかの確証はない。これが神話化ということだろう。田中宗易の実像を超えた物語もひっくるめての名が千利休ではないか。(森恭彦)
同朋衆(どうぼうしゅう)とは、室町時代以降、将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと。一遍の起した時衆教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれた。1866年(慶応2年)に廃止された。時宗を母体としているために阿弥号を名乗る通例があるが、阿弥号であっても時宗の僧であるとは限らない。観阿弥、世阿弥や、江戸幕府における同朋衆がその例である。
その一休が完成させた侘び茶について、「花と死者の中世」(中島渉著)に、次のように書かれている。
侘び茶の核にあるキヨメ
草庵とは田舎屋風の建材をもちいて建てた家のことで、茶を愉しむさい、絢燗よりも質朴な道具が好まれた。草庵を舞台とする佗び茶がはじまると、亭主がひじょうに重要になる。床の間にどのような掛軸をかけ、花を飾って客をむかえるか。それが亭主の力量そのものとなってゆく。そして、さらにはむかえた客の前で亭主が茶を点てるようになる。禅寺の茶でも書院の茶でも、茶を点てる人間はさして重要視されなかったから、これはまことに大きな変化であった。
もうひとつ忘れてならないのは、客の前で茶を点てるようになったとき、同時に「器をキヨメる」という行為がきわめて重視されるようになったことだ。
吊紗(ふくさ)とよぶ絹の布を使って、抹茶を入れた案(なつめ)や茶入などの容器をキヨメる。同じく吊紗で茶を掬う茶杓(ちゃしゃく)をキヨメる。茶碗に湯をそそぎ、そこで茶筅(ちゃせん)をキヨメる。その湯を捨て、茶巾という麻布で茶碗をキヨメる---佗び茶とは粗末な道具をもちいながらもそこに美を見いだす行為であり、あらゆる道具をキヨメて清浄なる一服を点てること、といいかえることもできよう。
茶の湯というと、細々した所作を覚え、そのうえに成り立っているものとわたしたちは思いがちだ。それはそれでまちがいではないのだが、核となる部分にキヨメがあることを忘れてはならない。そのキヨメこそが茶の湯をささえている。
侘び茶も立華も猿楽(能)も戦国時代から室町幕府の時代に、武士によって庇護され、脱賤視を果たしていった。そして、それは勃興してきた武士階級も、公家や僧侶からは他の被差別民と同じように賤視(畏れ)の対象であったことから、彼らが畏れる存在であった被差別民のパワーを取り込むことにとって、自らをキヨメたのだという。
なるほどそうかと、唸ってしまうが、こうした観点から、茶道や華道、能楽を見つめると、違った世界というか、深い意味のある世界が見えてきて、興味深い。