9月25日の朝日新聞夕刊「ニッポン 人・脈・記」お殿様はいま④「父への反発 当主の闘争」を興味深く読んだ。旧久留米藩21万石・有馬家16代当主・有馬頼央(よりなか・50)が取り上げられ、父・頼義(よりちか)の奔放極まる生き方への嫌悪にも似た反発を抱いたことが紹介されている。関心を呼び寄せられたのは頼義の父・頼寧(よりやす)の名があり、「戦前の大物華族で、農村問題や部落解放運動などに力を注ぎ、第1次近衛内閣で農林大臣。戦後も日本中央競馬会の理事長をつとめ、年末恒例の競馬レース『有馬記念』にその名を残す」などど書かれてあったからだ。そこで、改めて部落問題辞典を引いてみた。
有馬頼寧(ありまよりやす)
1884.12.17~1957.1.10(明治17~昭和32)大正・昭和戦前期の社会運動家・政治家。伯爵有馬頼萬の子として東京に生まれる。1909年(明治42)東京帝大農科を卒業,農商務省に入り,18年(大正7)農科大学付属農業教員養成所講師,20年助教授となる。この間10年に欧米に遊学しポルトガル国王の亡命に直面、華族として皇室を擁護する義務を痛感し,周囲の反対に抗して社会問題との取り組みを志す。
そのため浅草の同情園(貧民のための託児所)や特殊小学校玉姫小学校の事業を援助,19年には自邸内に夜間中学校信愛学院を創立した。21年融和団体・同愛会が結成されると推されて会長に就任,また賀川豊彦と親交があり,22年日本農民組合結成にも尽力した。
全国水平杜が結成されるとこれを支持し、政府は水平社を取り締まるのではなく、<善導>するべきで,国民は長年の差別を反省するべきだと主張、広く社会啓発活動を行ない、水平社の集会でも演説し,幹部には個人的に経済援助を与えた。こうした主張は全国の融和団体にも大きな影響を与え,25年全国融和連盟結成の中心的役割をなす。
この間,24年無所属で衆議院議員に当選、のち立憲政友会に入党、26年には超党派の貴衆両院議員による融和問題研究会を結成,政府に対し部落問題解決のための国策確立を要求した。しかし27年(昭和2)父の死により襲爵したことを機に運動からの引退を決意,同愛会も中央融和事業協会に吸収合併させた。以後同協会理事にはなるが目立った活動はせず,37年第1次近衛文麿内閣の農相、40年大政翼賛会事務総長を歴任,戦後戦犯容疑で収容されたが不起訴となった。
彼の立場を含め、そのあり方にはさまざまな評価はあるだろうが、融和運動とはいえ、水平社以前から部落問題への関心を示し、実践していたことは間違いない。さまざまな立場の人々がさまざまな視点から部落差別を撃つとりくみをしていたことが改めてわかる。そうした流れが伏流となって水平社創立となり、今日に引き継がれているのだろう。では、21世紀の今、伏流は絶えることなく脈々と流れているのだろうか?と問えば、はなはだ心許ない気がする。
同情融和では部落解放は実現しないが、それを峻別し、彼方へ押しやるだけでも私たちの目的には近づかない。その意味では、歴史に学ぶとはどういうことなのかをしっかり見据えることが大事だろう。有馬頼寧を部落問題に誘ったものは一体何だったのか?それを知りたいと思う。