執拗かつ異常な攻撃がなお続く。「彼ら」の目論見は、まんまと成功し、政権交代はなきものにされ、自民党の上を行く政策が次々に実行されていく。そして、無残に打ち砕かれた「夢」の後には、「悪魔」が手ぐすねを引いて待っている。

週刊金曜日(5月18日号)より
深読みかもしれないが、今年のメッセージには、これまで以上に一雄さんの心の内が滲み出ているように思う。無実の身でありながら、49年にわたって、「殺人犯」の汚名を着せられ、今なおその手には見えない手錠がかけられたままだ。
2009年、門野元裁判長のもとで始まった三者協議が証拠開示への扉を開いた。一雄さん本人はもとより、狭山事件を支援する多くの人々にとっても、待ち続けた一瞬であり、再審への希望の灯が点った一瞬であった。重ねてきた幾たびもの敗北の苦さを帳消しにするくらいの甘美さを伴ってもいた。一雄さんの不屈の闘争心がが呼び込んだ事態でもあった。
それから2年半、協議は10回を数え、開示された証拠は70点近くになる。しかし、「肝心な証拠は開示せず、『不見当』との回答をくりかえしています。」と一雄さんも言うように、検察はなおも隠蔽を図っている。そして、「今後の展開は来春に持ち越されることも考えられます。」と言うとおり、ズルズルと協議が際限なく続けられることへの危惧も募る。
こうした検察の姿勢に対して、裁判所はどのような方針を持っているのかが、伝わってこない。「裁判所の姿勢に問題を投げかけずにはおれません。」との指摘は当然だ。門野元裁判長による「証拠開示勧告」という重い決定を踏まえるなら、小川裁判長のとるべき道は明らかであり、いたずらに時間をかけるべきではない。
「心は閉ざされたまま50年、半世紀を迎えるのが濃厚な現実に直面し、心に重く感じるのは否定しませんが」との一雄さんの痛切な叫びが響いてくる。
5.23メッセージ不当逮捕49年に至って全国の支援者の皆さんにメッセージをお送りいたします。
年頭の挨拶では今年中に「再審」実現の「勝利の年に」と記し、又その積もりで全精力を傾注し闘って参りましたが、先の10回目の三者協議に於いて、検察は19点の証拠は開示したものの、求めていた肝心な証拠は開示せず、然も有るべき筈の「血痕反応検査」の報告書や、犯行現場とされる8ミリフイルムなども「不見当」との回答をくりかえしています。
私が無実を訴えたのは、「死刑」判決後、半年位であり、本来なら、その様な重要な証拠は保全してしかるべきなのに、私が東京高裁で「無実」を訴えたことに因って、保管しておくことに危機感を覚え、その時点で「廃棄」処分にして終ったのではないかと思わざるをえません。しかし、2009年の門野裁判長の勧告は、「存在しないならその理由の説明をしなさい」と踏み込んで迫ったはずであり、検察側はそれに対していまだ明確な回答をしていません。
弁護団は、検察側が提出してきた意見書に反論する専門家の意見書を提出するとのことであり、10月に予定されている11回目の三者協議を待たなければなりませんが、それによって今後の展開は来春に持ち越されることも考えられます。これまで8項目の開示勧告の内5項目、50数点について証拠開示がされましたが、肝心の3項目については、何度迫っても「ない」の一点張りなので、今後も「ない」理由の説明や、弁護団の求める他の証拠開示も求めていきます。
考えてみれば「殺害現場」が特定されないまま「有罪」が認定されていることになり、それらを究明するのが裁判所の職務の筈であります。また、あれ程沢山の無実を示す証拠が提出されているにも関わらず、「事実調べ」しないなど、「狭山事件」は、稀なだけでなく不公平な裁判経過といえるのではないでしょうか。「殺害現場」を裏付ける客観的証拠が「ない」ということ自体が私の無実を明らかにしていることを証明していると思われます。法廷を開き、事件当日、「犯行現場」の至近距離にいた農作業者をはじめ、「証人」尋問をすれば「白、黒」の決着をつけられるのにと裁判所の姿勢に問題を投げかけずにはおれません。
私、石川一雄の心は閉ざされたまま50年、半世紀を迎えるのが濃厚な現実に直面し、心に重く感じるのは否定しませんが、これからも「無罪」の二文字を勝ち取るまでは不退転に闘って参る所存です。支援者皆さんには、何時も私を支えて頂いており、感謝しつつも、この第三次再審で決着をつけるためにも更なるご協力が不可欠ですので、なにとぞ何時にも増して後押しをしてくださいますよう、心からお願い申し上げて、不当逮捕49年に当たり、私の決意と皆さん方のご理解の上、一刻も早く潔白の「よき日」を迎えられますようお力添えを再度お願いして失礼いたします。
2012年5月23日 石川 一雄
「樹は妙に草うるはしき青の国日向は夏の香にかをるかな」旅の途中で牧水の歌碑に出会った。彼は宮崎県日向市の生まれであることを知った。季節は春だったが、歌のように夏を思わせる暑い日で、ピタリとはまった。

創立50周年記念-全国では300基目 日向ロータリークラブ(桑原教輔会長)はこのほど、創立50周年記念事業として日向市細島の馬ケ背観光案内所横に若山牧水の歌碑を建立し、3日に除幕式を行った。牧水歌碑の建立は同歌碑が全国で300基目。
除幕式には黒木健二日向市長やクラブ関係者ら約30人が出席。クラブ50周年記念事業実行委員会の日高培郎実行委員長は歌碑に記された歌「樹は妙に草うるはしき青の国日向は夏の香にかをるかな」を紹介し、「クラブ創立50周年、若山牧水生誕125周年を記念して建立させていただいた。地元日向への敬愛が表されている歌だと思う」と話した。
黒木市長は祝辞の中で「日向の自然豊かな大地を表現しているすばらしい歌」と述べた。
その後、神事の中で玉ぐしをささげた日高委員長や黒木市長らが除幕し、歌の朗詠や献酒が行われた。
歌碑に記された歌は明治39年、牧水が早稲田大学3年生の時、日向に里帰りした際に詠んだもの。
夕刊デイリー(20104.6)より
5.23狭山「豊中・市民アピール・デー」5月23日、石川一雄さんが不当逮捕されて49年になります。豊中では、「狭山共闘会議」が次の行動を呼びかけていますので、ご都合のつく方はぜひ参加ください。
(1)市民アピール・デモ
午後6時 稲荷山公園(豊中市本町7丁目)集合・出発
176号線を南下
大池小学校前~豊中郵便局前~桜塚交差点を右折~克明小学校前~豊中人権まちづくりセンンター前~轟木公園まで
(2)ミニ学習会
時間:6時45分~7時30分
会場:豊中人権まちづくりセンター2階
内容:DVD「検証・狭山事件」(2010年テレビ朝日制作)上映
7年にして、アクセスが10万に達した。特別な感慨はないが、これを区切りにして、「次」をめざしたい。
2か月前、広野町を訪れたレポートを書いたが、そのときはちょうど役場が戻ってきたばかりだった。緊急時非難準備区域は昨年9月30日に「解除」されていたが、住民の帰還は進ます、通りを歩いても人に出会うことはなかった。
5月11日の読売新聞に掲載された、広野町を含む緊急時非難準備区域のデータはそうした実情を反映している。政府が「収束宣言」を発し、「除染」のPRに努めても、おいそれとは帰れないのだ。数字が物語っているのは、原発事故をなかったかのごく、おおい隠そうとする政府の姑息なやり口への批判ではなかろうか。
今日も広野の町は、静かで、火力発電所の煙突の煙だけが勢いよくたなびいているだろう。
読売新聞(5月11日夕刊)の記事だが、「名張」はいよいよ高裁の判断が25日に出されるという。今夜、狭山事件の再審を求める豊中市民共闘会議の運営会議があり、第3次再審と三者協議の経過などについて報告した。「東電OL殺人事件」や「袴田事件」を含め、再審事件をめぐる動きがさまざまに報道されているなか、「狭山事件」だけが「蚊帳の外」にあるような状況について、警鐘を発したつもりだが、願わくはそれが共通認識になってほしい。
また、49年目の「5.23」(石川一雄さんが不当逮捕された日)は、東京でも大阪でも集会はもたれないようだ。もっと早くにそうしたことが伝わっていれば、対処のしようもあるが、ここに至っては、できることは限られる。それでも、豊中では恒例の「市民アピール・デモ」のあと、学習会を行うことになった。
大きな山場にあるというのだから、もっと積極的な方針があっていいと思う。11回目の三者協議は10月だそうだが、それまでじっとしているわけにもいかないだろう。
控訴に対する批判と疑問が小さく載った(今朝の読売新聞)。「小沢バッシング」の記事の中でキラリと光っている。
書名につられて読んでみたくなった一冊だ。西行も清盛も、歴史上の著名な人物で、なぜ二人の名がタイトルに?と思ったが、冒頭にその理由が書かれている。どちらも1118年生まれなのだ。さらに、二人とも武士の出身で、将来を嘱望されていた。清盛については、NHKの大河ドラマをはじめ、様々に取り上げられて、よく知られているが、西行については、「山家集」という短歌集ぐらいしか思い浮かばず、どんな生き方をしたのかは知るところでもなかった。
そんな浅学の身を顧みずに本書に挑んだわけだが、やはり難物だった。人の名前がたくさん出てくるが、その読み方はもちろん、相関図が複雑極まる。当時の支配権力であった天皇の順番はもちろん、摂関家・藤原一族や平氏との姻戚関係も入り組んでいる。「家系図」もあるが、すんなりとは頭に入らないままだ。また、西行はもちろん、たくさんの歌が出てくるが、その解釈がこれまた手に余る。いちいち立ち止まっていたのでは、読了はおぼつかないので、理解に余るところは流すことにせざるを得なかった。
さて、同年に生まれた二人だが、清盛は天下人をめざし、一時であるにせよ、その夢を実現し、武士の時代を拓く先駆けとなった。一方、西行は23才で突然の「出家」をし、周りを驚かせる。そして、高野山や吉野などに庵を設けて修行し、多くの歌を詠んだ。本書の帯に「遁世か、武断か」とあるように、まさに二通りの対照的な生き方をした二人だが、それぞれにひとかどのものを残した。