昨夜、何の気なしにテレビのチャンネルをまわしていたら、見覚えのある人物が通りすぎ、慌ててチャンネルを戻すと、何と赤坂憲雄さんだった。放送大学の特別講義「東北学への誘い」で、後半を過ぎていた。
赤坂さんと言えば、ずいぶん前に「王と天皇」(筑摩書房、1988年)という本を買ったことを思い出す。そして、「3.11」後に「震災論」で再会し、一度、話を聞きたいと思っていた。
この夜の放送で興味を持ったことは、被差別部落についての考察だ。近畿を中心にした西日本に圧倒的に多く存在し、いまなお部落差別が厳然と存在するが、東北では跡形はなく、アイヌや沖縄では存在自体がなかったのはなぜかということだ。赤坂さんが言うには、農耕文化と狩猟文化の違いが大きいのではということだった。
西日本では賎視の対象であった屠殺も、東北やアイヌ、沖縄ではそうではなく、日常生活の中でのありふれたことであったという事情の違いがあったということだ。時と所が変われば、同じ事柄であっても、違った意味づけをされ、それが途方もない差別につながるということでもある。
だから、そうした意味合いを考えると、部落差別は日本という国の歴史的な成り立ちのなかで作られたものだということができると思う。赤坂さんの分析についてさらに知りたいと思う次第。知っておられる方があれば、お知らせを!
ウィキペディアには、「飛田遊廓(とびたゆうかく)は、「大阪市にかつて存在した遊廓、赤線である。通称は飛田新地(とびたしんち)。大正時代に築かれた日本最大級の遊廓と言われた。1958年の売春防止法施行以後は料亭街『飛田料理組合』となっているが、現在も当時の雰囲気を伝えている。ほとんどの「料亭」は看板は料亭であるが、営業内容は1958年以前と何ら変わりがない。表向き料亭に転向することにより、料亭内での客と仲居との自由恋愛という脱法行為として売春防止法を逃れられたためである。同様に大阪市内には松島新地(西区)や今里新地(生野区)等、現代に生き残った旧赤線がある。現在料亭(本来の料亭)として営業している鯛よし百番は、大正中期に遊廓として建てられた建物を使用しており、2000年をもって国の登録有形文化財となった。」とある。
本書は、うわさに聞いたことはあるが、その実態については知ることもなかった、その「飛田」を足かけ12年にわたって取材した結晶だ。要した年月が示すとおり、生半可な道のりではない。何よりも「当事者」が誰も口を開こうとしないのだから無理もない。しかし、著者の執念にも似た一途な想いに惹かれるように、一人また一人と呼び寄せられ、その口から「色街」の一端が開陳される。もちろん、ここにすべてが凝縮されているわけではないが、その街とそこに生きる人たちの今が丁寧に切りとられ、悲哀に満ちた人生が活写されている。
読み進むうちに、一度見てみたいとの誘惑と好奇心に駆られることは不可避だが、著者は「あとがき」で、「なお、本書を読んで、飛田に行ってみたいと思う読者がいたとしたら、『おやめください』と申し上げたい。客として、お金を落としに行くならいい。そうでなく、物見にならば、行ってほしくない。そこで生きざるを得ない人たちが、ある意味、一所懸命に暮らしている町だから、邪魔をしてはいけない。」と言う。完璧に下心は見透かされるが、これは著者ならではの重たい言葉だ。
誰しも安楽で、安全で、快適なくらしを紡ぎたいものだが、そこから弾き飛ばされることもあるのが現実だ。結果、人生の辛酸をなめ、さまざまな事情と経緯を経て、人はそれぞれの時を生きることになる。それは自身が選び取ったものではあると同時に、そうせざるを得ないものであり、選択の幅はそれぞれが置かれた状況によって異なる。しかし、人はそこで生きていくし、いかざるを得ない。だからこそというべきか、いまなお飛田がそのままに存在し続ける意味もそこにある。
著者は、「はるか昔に売春防止法ができたことも、『人権』なるものが世に存在することも知らないような町・・・」と「はじめに」で書いているが、飛田に生きる人たちは、したたかだ。現実を知り尽くしたうえで、何食わぬ顔をして生きる術を身につけており、それは今も昔も変わらないように思う。線引きはされても、きれいに二つにはならないことは、この世にいっぱいあるが、飛田もその一つだ。みんなが知っているけれど、知らないことになっている。何とも不可思議な空気と息づかいが伝わってくる一冊だ。
わたしはいま、被災地から遠く離れた東京にいて、いわば快適な環境から、かぞえきれない死者たちの霊と、すべてを失ってしまったたくさんの被災者、友人たち、不安にかられている人びとにむかってなにかを書こうとしています。正直、そのことがなにか罪深いことのようにも思われてなりません。わたしがいまいる場所と、それから、いまこの時間にもまさに難儀している人たちとの距離、生きている条件、環境、内面のギャップを、どうしても意識せざるをえないからです。書くことをひるんでもしまいます。
しかし、われわれの身にいったいなにが起きたのか、なにが起きつつあるのか、それはどのような性質の出来事であるのか、なにが壊され、潰(つい)え、なにが生まれたのか、このさきにどんなことどもが出来(しゅったい)しようとしているのか、歴史はこれからどう変わるのか-を感じとり、ひとつひとつ言葉にしていくのは、作家であるわたしの義務であり運命であると考えます。これは、「瓦礫の中から言葉を」(NHK出版新書)の冒頭のフレーズだ。大震災とそれに伴う事柄を語ろうとするときに、感じることがずばり書かれている。「安全」な場所で「安楽」な暮らしを紡いでいる私が、何ほどかのことを言うもははばかれるという思いはいつもつきまとう。ボランティアにでも行っていれば、一言ぐらいは発してもという思いにもなれるのだろうが。
ギャップを意識すれば、ひるんでしまい、言葉すら出なくなる。しかし、作家の義務は市井に暮す私(たち)の義務でもあるだろう。ここを踏み違えずに、しかと留まることが肝要だと思う。「感じとり、言葉を発しよう!」



「一の湯」の近く、階段を上り、城崎の街を一望できる高台にそれはあった。幾たびもの変遷を経た芭蕉像が、その場を得て鎮座し、かたわらには「湯の花句会」によって建てられた句碑も。
読売新聞(1月27日)

これに先立って「AFPBB News 」は以下のように伝えている。
ルーブル美術館、福島など被災地で美術展計画 日本への連帯示す2012年01月13日 11:59 発信地:パリ/フランス
【1月13日 AFP】仏パリ(Paris)のルーブル美術館(Louvre Museum)は12日、福島など東日本大震災の被災県でルーブル所蔵の20数点を展示する美術展を開催すると発表した。日本への連帯を示すためだという。
ルーブルで古代ギリシャ、エトルリア、ローマ部門を担当するジャン=リュック・マルティネス(Jean-Luc Martinez)主任学芸員によると、美術展の開催は4月20日から9月17日までの予定。さまざまな時代の絵画、彫刻、スケッチ画など23点が美術展会場の1つ、福島県立美術館(Fukushima Prefectural Museum of Art)に7月28日、ルーブルから到着するという。
福島県では東京電力(TEPCO)の福島第1原子力発電所で事故があったことから、フランスでは展示美術品や随行する職員の被ばくを懸念する声もあったが、マルティネス氏は、福島市の放射線レベルはパリの美術館周囲と同程度で危険を伴うことはないと説明した。来日する職員たちは自発的意志で訪れるという。
東北でのルーブル美術展は、前年3月11日の東日本大震災で被災した日本の人々への連帯感を表明するために企画された。(c)AFP
読売新聞(1月27日)

週刊金曜日(1月27日号)

「除染14年3月完了」との見出しにびっくり!あまりにも早すぎる、本当に大丈夫なのかと。週刊金曜日の最新号にこの問題が特集されているが、それをみるとトンデモナイことだがわかる。恐ろしいたくらみが隠されているような気がする。
読売新聞(1月23日)

読売新聞(1月25日)

袴田事件でも弁護団の主張をいれ、DNA鑑定が実施されることになった。結果がでれば、再審開始への決定的な証拠になる。東電OL事件では、これ以上の鑑定は不要と高裁が判断した。これまでの証拠で再審開始決定は間違いないということだろう。
いずれの事件でも、三者協議と証拠開示が行われてきたことは、狭山事件と同じだ。しかし、違うのは、情報開示のあり方だ。狭山事件では、情報がなかなか表に出ないが、東電OL事件では、協議の内容や次回の期日までも開示されていることは対照的だ。両事件は、同じ東京高裁第4刑事部に属しているのだから、この違いはなぜかと思う。
本書の著者である近藤典彦さんのブログ
「『一握の砂』を朝日文庫版で読む 近藤典彦」からの引用です。
『復元啄木新歌集』は2つの歌集から成る文庫本です。
今年2012年は啄木没後100年、『悲しき玩具』刊行100年。これを記念しての出版物です。
1つ目の歌集は『一握の砂以後』。これは生まれ変った「悲しき玩具」です。100年前に出た『悲しき玩具』は土岐哀果の編集になるものですが、啄木の意図を大きく毀損する編集・いくつもの重要なルビの間違い・啄木とは違う漢字の使用等々の問題がありました。
しかしこの問題に研究者はあまり気づきませんでした。その上土岐哀果編集という権威が大きいので、少しは気づいてもこの問題に触れようとはしようとしませんでした。
このたびわたくしが気づいた限りの全ての問題点を、啄木の原本「一握の砂以後」と先行諸研究とわたくし自身の研究とに基づいて改訂しました。その結果「悲しき玩具」が鮮やかに生まれ変わりました。
2つ目の歌集は『仕事の後』。これについてはこのブログで46回にわたって書いてきました。46回のブログは本書の「解説」部分です。通して読むとけっこう面白いはずです。
そして『仕事の後』の本文。これは苦労しました。『仕事の後』の本文を明治時代に見た人は、啄木以外では啄木が売り込みに行った先の春陽堂の編集者だけでしょう。啄木はこの原稿を解体しました。したがってまさに幻の歌集となったのです。
本書によってその歌集が読めることになりました。
さらにこの2つの歌集が1冊に編まれたことで、朝日文庫版『一握の砂』とすばらしい連関ができました。それは本書「あとがき」に書いてあります。
本書と朝日文庫版『一握の砂』は不可分の一対を成しています。
今年の賀状に、「解放運動についても触れないわけにはいかないが、どうあがいても瓦解への道は止めることができない気がする。それほどに内部崩壊が進み、小手先の弥縫策や対処療法ではどうにもならないところにある。」と書いたが、改めてそのことを痛感させられる。
しかし、「解放新聞」等を通じて流布されている問題意識は、相も変わらず「ピンチをチャンスに!」との思い込みに基づいた楽観的なものばかりだ。このままでは・・・?との危機感はあるのだろうが、真剣に目の前の問題と向き合うといった気概が伝わってこない。
その最たるものは、「水平社創立90年」を冠にしたキャンペーンだろう。それを言うことによって、部落解放運動が抱えている深刻な問題が浮き彫りにされるのならいいが、全く逆で、問題を遠ざけて見えなくするような仕儀になっているような気がする。
この間、積りに積もってきた矛盾と困難によって、「現場」は瀕死の状態にあることは周知の事実だろう。しかし、小手先の突拍子もない「改革案」で乗り切れるなどと考えている節があるところに「危機」の深さがある。結果、そんなありようを見て、とっくに愛想をつかしている「現場」は、ますます内にこもることになる。
もはや袋小路で、疲れがたまり、真剣に悩めば悩むほど擦り切れていく状況にある。ここをやり過ごすためには、大いなる楽観主義(なるようにしかならない)しかないような気がする。部落解放運動も「時代閉塞」の中にある。